パレスチナに友達がいるということ

o0400026711361694645 photo: Mitsutoshi Nakamura

 

5月17日 アカバ (ヨルダン) 

ヨルダンにあるパレスチナ難民キャンプを訪ねる

(※記憶をさかのぼって、船旅日記を書いています)

 

イスラエルには10年前、パレスチナには9年前に行ったことがあった。

イスラエルに行ったのは、学生最後の年。

4か月間のバックパックの旅の途中だった。

エルサレムのアラブ人地区の安宿に泊まっての旅。

世界中からの旅人が集まる宿から乗合バスで死海に遊びに行ったり、市場を散歩したり。

自分の枕もとをゴキブリもカサコソ通ったりして、冒険気分も満点で、

日に数回コーランの流れるのを聞きながら、

エルサレムの持つエキゾチックな魅力に十分に満足していた。

 

「イスラエル」が「パレスチナ」と紛争状態にあることは知っていた。

ガイドブックに載っている程度の歴史や、博物館にある展示は、くまなく読んで歩いた。

でも、そのとき21歳だった私は、ロンリープラネットや地球の歩きかたを何度も読みながら、

ガイドブックに掲載されていたのがイスラエル側のことばかりだということに気がついていなかった。

道を隔ててすぐ向こう側に「パレスチナ」があるなんて、考えてもみなかった。

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その翌年、初めて乗ったピースボートでパレスチナを訪ねた。

訪ねた場所は、2度目のエルサレムと、ディヘイシャ難民キャンプ。

船で出会った同じ年のパレスチナ人の友達、ラミの話を存分に聞いてから訪ねるエルサレムは、

前の年に自分が旅行で訪ねたときとはまったく違う町のように見えた。

 

「俺は、生まれてから今まで、こうしてピースボートに乗るまで、

結婚式以外の機会に大人が『楽しむ』ために努力するのを見たことがなかった。

19時以降の時間も、攻撃をおそれずに電気をつけていられたり、

大きな音を出して騒いでも大丈夫なこの風景に慣れなくて、

最初は家族や仲間をパレスチナにおいてこの場所にいる自分に嫌悪感さえあった。

でも、わかったよ。こういう何気ない時間が、『平和』なんだな」

 

そう話してくれたラミの家を訪ねて、ラミのお母さんが私たちのために出してくれたお菓子を手に近所を散歩する。

前の年にも歩いたエルサレム。目に入る光景は同じはずなのに、心に焼きつく思いはまったく違うものだった。

もともとずっと自分の家族が住んでいた土地にいながら、家を追われ、

「難民キャンプ」で生活する人たちがいることを、頭では理解しながら、心で理解できずにいた。

はにかんで笑って、滞在中ずっと、私のズボンのすそをキュッとにぎる女の子がいた。

近くにいたおじさんから、「彼女はイスラエルの攻撃で母親を失って、おばさんと一緒に暮らしている子だよ」

と聞いた。

 

政治的な理由で戦争がはじまるけれど、傷つくのも、家を失うのも、家族を失うのも、ぜんぶ、「人」なんだ。

あたりまえの事実が、はじめてガツンと心に入ってきた。

o0400026711361697671 photo: Mitsutoshi Nakamura

 

あれから、8年。

ピースボートに関わりながら、もう一度パレスチナの人たちを訪ねる機会に恵まれず、今回の旅を迎えた。

今回訪ねたのはパレスチナではなく、パレスチナを追われた人たちがヨルダンで暮らす場所。

アカバ郊外にあるマダバ難民キャンプを訪ねた。

現地の文化に倣い、暑いけれど長そで長ズボン。

ヒジャーブで髪をおおってバスを降りる。

o0470031311361698659「みなさんこそが平和の大使です。今日は存分にパレスチナの文化に触れてください」というパレスチナ関連省代表の長い長い挨拶を聞き終え、住宅地を歩きはじめる。

ヨルダンにあるパレスチナ難民キャンプは普通、10万人規模の人口を抱える場所が多いのだけど、ここ、マダバ難民キャンプは1万6千人という、比較的規模の小さな地域だ。

 

ここに住む人の多くにとって、

人生の中で観光客に会ったこともなければ、

ツアーで訪れる大量の日本人なんて見るだけで面白いに違いない。

o0600043211361699665 Photo by Dan Freeborn

 

私は特に、ベビーカーをおしてモモを連れて歩いているから、地元の子どもたちも興味深々。

「ユア ベイビー?」

「ビューティフルベイビー!」

「ワッツ ハー ネーム?」

「ハウ オールド?」

角をまがるたびに、私たちを囲む子どもの数が増えていく。

モモが何歳なのか、何が好きなのか、日本のどこから来たのか、片言の英語で質問攻め。

o0313047011361702986みんな、ものすごくいい笑顔。

次々に自己紹介してくれて、名前が覚えられない。

身振りで 「私がベビーカーをおしてあげる!」 という女の子が出てきて、誇らしげに桃をおしてくれる。

ここに住む人の半分以上がいわゆる貧困線以下、つまり1日2ドル以下で暮らす人たちだと聞いていた。

 

でも、子どもたちが次々に、モモにお菓子を持ってきてくれる。

「ありがとう。この子は大丈夫だよ、あなたが食べて」

というのだけど、頑として受け入れてもらえず、

モモはポップコーンやクッキーを両手に子どもたちの大名行列の先頭にいる。

o0375050011361703934日本から来る私たちが「難民キャンプ」と聞くと、テントに住んで、配給を受けながらその日暮らしをしている人たちを想像する。

でも、私たちが訪ねた難民キャンプをはじめ、ヨルダンにあるパレスチナ難民キャンプのほとんどはすでに「キャンプ」ではなく「住宅街」になっている。

 

それを見て、援助物資を持ってきている参加者の子たちの中には、困惑した顔の子たちもいた。

「正直、思っていたよりいい暮らししてそうだよね」 とか

「貧しい、困ってる、って感じじゃないよね。わりとフツー」 とか

「あの子、アイスとか食べてるし」 とか

「あの家には、テレビあったし」 とか言う声も聞いた。

o0267040011361705289 photo by Mitsutoshi Nakamura

60年前の第1次中東戦争のころに故郷を追われた人たちがここに住みついて、第2世代、第3世代、第4世代が生まれても、今だに国に帰れずにいる。

帰りたい家の鍵を、世代を超えて、そのまま大切に保管しながら。

 

だから、

60年もたてば、ヨルダン内で仕事も得なくちゃ生きていけないし、

雨も降るし太陽も照りつけるんだから、家だってテントから少しずつグレードアップさせるだろうし、

そもそも、これだけ暑かったらアイスくらい食べたっていいじゃないかー!!!!

「まあ、そうなんだけど。アイス、買えるんだなと思って」

・・・逆に、これだけ新しい生活が確立してしまうくらいの長い年月、政治的な理由で家に帰れない人たちがいるという事実が問題なのであって。

 

「でも、今ここで不自由していないんだったら、もうこのままでいいんじゃないのとも思ったりして」

・・・子どもたちのあったかい大歓迎に感激しつつ、同じ船からの参加者の子たちの声に複雑な思いを抱えながらの滞在だった。

o0400026711361706546 photo: Mitsutoshi Nakamura

先進国に住む私たちの「国際協力」は、

「かわいそうな人たちを助ける自分」というわかりやすい構図に陥りやすい。

難民キャンプに行く、というとき、どこかで圧倒的な貧困、圧倒的な差別、圧倒的な破壊を「期待」しているのかもしれない。

だから、こういう場所で、「思っていたより、かわいそうじゃない」という声が出てくる。

今までの私だったら、ムキになって、

「いやだから、問題は、単純な貧困をこえたところにあるんだってば。

パレスチナの人たちが苦しいのは、政治背景と国際的な無関心と・・・」なんて、理詰めで説得しようとしていたかもしれない。

たぶん、そんなこと私が言ったってただのウザイやつになるだけなんだけど。

o0333050011361707302でも今回は、モモのおかげで少し違った。

 

すごく単純に、

「友達をつくるって、そういうことじゃないよ」 と子どもたちが教えてくれたから。

私も含めて、大人たちはいつも、

「かわいそうな人たち」とか「パレスチナ人」とかいう風に、出会う人々をひとくくりにまとめて

「困っていることは何ですか?」なんていう視点で訪問したりする。

本当はそうじゃなくて、

まずは目の前で大歓迎をしてくれている友人たち、ひとりひとりと仲良くなればいい。

友達ができて、その家族のストーリーが見えてきたり、

好きな時間の過ごしかたや恋愛のありかたを知ったとき、

彼らが抱える喜びも不安も日常も、全部自然と、自分のことのように共感できるようになる。

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偏見も先入観もない2歳のモモが、

すごい勢いで自分を取り囲むお兄ちゃんやお姉ちゃんの元気に戸惑いながらも

「おねえちゃん、やさしかったね」

というのを聞いて、すごく、そう思った。

 

実は、ここに来る前は、どこか

「難民キャンプに連れていくからには、しっかりモモを守らなければ!」みたいな意気込みも抱えていた私。

恥ずかしい。

逆に私も、モモのおかげで友達ができちゃったりしてる始末なのに。

子どもは本当に、偉大だなあ。

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その日の夜。

今はピースボートの中東在住スタッフになって、

今回の難民キャンプ訪問をオーガナイズしたラミが勉強会を開いてくれた。

9年前、はじめて乗ったピースボートで、はじめて仕事として通訳を担当したのが、

当時の私と同じ年のラミ・ナセルディンの講座だった。

はじめは、同じ留学生として乗船していたイスラエル人のケレンと握手をすることさえ拒んだラミ。

異なる歴史観と価値観をぶつけて毎日喧嘩しながらも、1か月の船旅が終わる頃には

ケレンともすっかりうちとけて、デッキで一緒に「シャローム・サラーム」という平和の歌を歌っていた。

 

二人は、帰国後も、イスラエルとパレスチナの若者が出会う場づくりが何よりも大切だと考えて、

両方の学生をひきあわせる平和会議を続けている。

私には、紛争地で生まれ育った友達なんてそれまでいたことがなかった。

あのときの強烈な学びと体験があったから、

今私がピースボートのスタッフをしているといっても言いすぎじゃない。
ラミと友達になったことが、私のアラブ観や世界観をグッと変えたことは間違いない。

o02000150113617115679年たって、ラミも私も31歳。

ラミも私もそれぞれに結婚して、子どもがいる。

9年間の間にも何度か顔をあわせてくだらない話はしていたけれど、

ラミが「講演」するのを聞くのは久しぶりだった。

9年前、不器用だけど、だからこそエネルギーたっぷりにパレスチナの事情を話してくれたラミは

今や堂々たる落ち着きで、わかりやすい口調でパレスチナを語る、いっぱしのスポークスパーソンになっていた。

・・・なんだか、感慨深い。

o0400026711361712700 Photo: Mitsutoshi Nakamura

トークは、昼間から気になっていた意見からはじまった。


「私たちは今回、フェアトレードのプロジェクトで資金を集めたり、

援助物資もたくさん抱えて難民キャンプを訪問しました。

でも正直、実際に難民キャンプを訪ねて会った人たちは

“かわいそうな人たち”であるようには見えませんでした。

わりときれいな服を着て、お菓子を食べながら遊んでいて。

実際、今、マダバ難民キャンプに住んでいる人はどのくらい”困っている”んですか?」

 

ラミは戸惑いも怒りもなにもなく、異文化からの質問をスッと受け入れて淡々と答えていた。

通訳する私も、頑張らなくちゃいけない。

というわけで、以下、長いですが、ラミの講演を一部抜粋して掲載します。

ぜひ最後まで読んでください。

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「率直な意見をどうもありがとう。

今日みなさんは一日キャンプを訪れただけだし、そういう印象をもつ人がいるのもわかります。

まず理解してほしいのは私たちアラブ人、…パレスチナ人というより、 『アラブ人』としての文化です。

私たちには誇りがあります。

どれだけ貧しくても、海外からのお客さんが自分たちに会いにくるとなれば

持っている中で一番いい服を着ます。 その客人が自分の家にくるとなれば、

近所から食べ物を借りてきてでもおもてなしをします。

それがアラブ人の誇りであり、自尊心です。

o0600041611361714537 Photo by Dan Freeborn

 

でも実際には、ヨルダンにいるパレスチナ難民人口のほとんどが貧困線以下の生活をしています。

学校はUNRWA(国連難民救済機関)が提供したものがありますが、

人口にみあった数の学校を作ることができていないことがほとんどです。

マダバ難民キャンプでも、700人の子どもたちが半日ずつ、

つまり300~400人が1日3時間半ずつだけ授業を受けることができる環境があるのみです。

これでは十分な教育を受けることができません。

子どもの遊ぶ公園ひとつなく、学校も半日で終わってしまう。

それなのにキャンプの外に出ることは容易でなく、子どもたちは基本的にフラストレーションを

ためています。

また、住環境も同じです。

外から見ただけではわからないかもしれませんが、

今日ホームステイに参加した人たちは、いろいろ感じているのではないかと思います。

ホームステイの受け入れができるのはキャンプの中でも比較的裕福な層の家庭ばかりですが、

それでもとても小さな家であることや、隣の家の会話も筒抜けであるようなプライバシーのなさに

驚いているでしょう。

UNRWAがヨルダン全土のパレスチナ難民を支援するプロジェクトを続けていて、

毎日各家庭に食料の配給も行っています。

配給を受けなければ明日の食事もおぼつかない家族がほとんどだからです。

今日は着飾っていた子どもたちも、よくよく見てみれば靴をはいていなかったり、

着飾っているといってもボロを着ている子もいたことを、

しっかり見ていた方は気づいていたのではないでしょうか。

それでも、比較論でいえばヨルダン内のパレスチナ難民の状況は「悪くない」と言えます。

ヨルダンにいるパレスチナ難民には、3万人をのぞくすべての人口に市民権があたえられ、

こうした国連の支援も受けることができるからです。

アラブ諸国全域に住んでいる40万人以上のパレスチナ難民の状況はひどいものです。

たとえばレバノン。

レバノンに住むパレスチナ難民は知的な職業70種に就くことを禁じられていて、

警備員の仕事やキャンプ内の学校の教師になる以外、まともな仕事などありません。

また、キャンプの一歩外に出ればチェックポイントがあり、

「おまえは何者だ」と身分証明書の提示を求められるような生活です。

みなさんが今日会った、ヨルダンのパレスチナ難民は、

レバノンに住む人たちと比べてみれば天国のような環境に暮らしているわけです。

何よりも知っていただきたいのは、

今日みなさんが会った人々が抱えているのは「貧しいから助けてほしい」という問題ではない

ということです。

大量の援助物資を持っていっても、それは1日もすればなくなります。

解決しなくてはならないのは、明日の食料の問題よりも、

故郷を追われた人たちが故郷に帰れずに苦しい環境にある、

それに対して国際社会がなすすべをもっていないという構造そのものなのです。」

o0600034411361715766 photo by Dan Freeborn

 

ラミはまた、こうも言っていた。

「難民キャンプを訪れると、みなさんはよく「私に何ができますか?」と聞きます。

日本人として、イスラエルパレスチナ情勢に変化を起こそうとするのはたいへんなことです。

ですから、みなさん自身に変化の担い手になってほしいとは言いません。

ただ、日本のみなさんには変化の一端の、重要な役割を担っていただきたいのです。

日本にできること。それはまず、アメリカを支持するのをやめてほしいということです。

僕たちに必要なのはほんの少しのチャリティーよりも、政治構造の変化です。

僕は沖縄を訪れたことがあります。

沖縄には大きな米軍基地があり、日本政府がその滞在費まで支払っていると聞いて愕然としました。

沖縄の基地から、イラクへの攻撃もはじまりました。

みなさんにできること。

それはアメリカの傘下を抜け出すことです。

そのために、まずは沖縄の米軍を追い出してみてはどうですか?

僕は、ヒロシマ・ナガサキがあった第二次世界大戦後に

素晴らしい復興を果たした日本のみなさんがとても好きです。

アメリカの一部を抜け出して、もう一度自分の国をつくってください。

幸い、日本には憲法9条もあることを僕は知っています。

戦争をしない、戦争に協力しない平和な国のモデルとして、平和立国してほしいと思います。

ピースボートも去年、9条世界会議という大きな会議を主催しました。

会議後も、憲法9条を世界に広げていくグローバル9条キャンペーンは続いています。

日本人のみなさんにできることはたくさんあると思います。

日本が大好きなアラブ人は僕だけではありません。

日本は平和な国のシンボルのようで、多くのアラブ人が日本に好意的な感情を持っていました。

でもその印象も、イラク戦争以降、変化しつつあります。

なぜ日本はアラブを攻撃する側にいるのか。

なぜアメリカと一緒に軍隊を送るのか。

(※自衛隊の派遣は「日本軍」ということばで現地で報道されている)

ただ、それは日本「政府」に対する嫌悪感であり、

日本「人」であるみなさんは別であるはずだと僕は思っています。

みなさんひとりひとり、それぞれに考えて、平和な世界のためにできることをしてください。

パレスチナを知ろうとここまで来てくださってありがとうございました。

これからもパレスチナ人と日本人の友好が続きますように」

 

ラミ、かっこよかったなあ。

トークのあと、そう伝えると、照れくさそうに

「まあ、またパレスチナにおいでよ。今度は家族で会えるから」と言う。

ラミと私は同じ31歳。

同じように小さな子どもを抱える親になった。

私の娘の桃はたぶん、

これからも戦争で好きな人や家を失ったりすることなく、まあ平凡に幸せに生きていくんだと思う。

 

じゃあ、ラミの子どもたちは?

そう考えると、やっぱり、単純に、今の状況が腹立たしくてならない。

しかたがない、なんて絶対に思えないし、どれだけ小さくてもできることをしたいと思う。

友達がいる、ということは、なによりの国際平和への道かもしれない。

ラミの家族が、いつもみんな幸せでありますように。

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