「平和は子どもからはじまる」深津高子さん講演録
子どもの家のアドバイザーの深津高子さん。
全国の保育園、幼稚園で子どもの育つ環境のアドバイザーとして、保育士さんたちや保護者向けの講演会を続けている。
次々に子どもがワクワクする遊びを発明できる高子さんのことは大・尊敬しているけれど、そんな高子さんも、実は最初から子どもが大好きで、「大きくなったら幼稚園の先生になろう」と思っていたわけでは決してなかったのだそう。
高子さんがモンテッソーリ教育に出会うまでの半生を追った物語、題して「平和は子どもからはじまる」。
それをどうしてもみんなと共有したくて、船内でトーク企画にした。
高子さんのゼミ生となった「子どもの家パートナーズ」のみんなの協力を得て、講演を書き起こしたので、このブログでもそのダイジェスト版を紹介。
長いけど、興味のある人はぜひ最後まで読んでください。感動するよ!!
デザイナー、日本語教師の仕事を経て26歳になった高子さんは、「本当に援助を必要としている人のそばにありたい」と単身、カンボジア国境へ赴いた。
80年代のカンボジアは日本の若者が国際協力に「行く」、そのはしりの時代だったと思う。
90年代以降、特に阪神大震災以降はボランティアや「NGO」の存在が一般的になったけれど、高子さんがカンボジア難民キャンプに赴いたのはインターネットもない時代。
国際貢献と言っても、まだ「アフリカのかわいそうな子供たちに募金をしよう」という程度の活動が主流だった時代だ。
そんな中、「自分たちで現地へ行ってみよう」と出てきた若い人の第一世代が高子さんたちだったのだと思う。
当時、高子さん達とタイ国境付近で活動していた人たちは、今、各界の第一線で活躍されている。たとえば、国際協力・貧困の分野で日本のNGOの第一人者になっているJVCの熊岡さんや朝日新聞論説委員の水野記者。
彼らは皆、言ってみれば、今のNGO業界、国際協力業界の「歴史」の最初のページに登場するような人たち。
つまり、私の大先輩たちだ。
平和づくりの方法にはいろいろあって、高子さんはその後、強い信念を持って「教育」を選んだ。
だからこれは、「平和運動」としての保育のお話なのです。
私はこの難民キャンプで、難民の人が来るたびに缶詰や外国から送られてくるTシャツを配給していました。
でも、配れば配るほど、物に引き寄せられるように難民の人たちが出てくる。
難民が出ないようなお手伝いをしたかったはずなのに、「難民が出る手伝いをしている」ような錯覚です。
援助のもう一つの側面を見てしまいました。
そこで、悩んで、悩んで「本当に難民が出ない援助はどうしたら良いのだろうか」ということで、私はラオスの難民キャンプだけではなく、ベトナムの人が収容されているキャンプは、どういう援助をやっているのだろう、カンボジアの人たちはどうなのだろうかと、あちこち難民キャンプ巡りをしました。
このスライドの人が誰か、どなたか分かりますか?
共産党員で、ある時期カンボジアの首相でした。
フランスにも留学した人ですが、中国の急進的な革命にあこがれ、自分のカンボジアという国を農業中心の共産主義の国にしようと思った人です。
ポルポトですね。本当の名前はサロット・サルと言います。 1925年から1998年まで生きた人ですが、この人が急進的な農業中心の改革を行うため、都市生活者を全部強制的に農村へ連れて行きました。
知識階級も文化人も僧侶も全部連れて行ったわけですが、自分の改革に邪魔になる反対者や考える力がある人や少しでも文字を読める人、眼鏡をかけている人は文字が読めるという証拠になりますから、眼鏡をかけている人も全部処刑したわけです。
ポルポトはカンボジア人でありながら、同じ同胞のカンボジア人を1975年から77年のたった2年足らずの間に、数百万人を処刑しました。
カンボジアの悲劇はそればかりか、子どもたちを密告者として、スパイとして使ったことです。 子どもたちは本当に純粋で従順で、褒めてもらえると本当に喜びます。
飢餓状態の人が隠れて田んぼでカエルを食べているのを、オンカーというポルポト派の組織に全部言いつける。また褒められる、だから子どもたちは自分の親でさえ密告する。
機能しない家族をつくることをポルポトは狙っていたのです。
クメールルージュとは「赤いカンボジア」という意味の党の名前です。ポルポト派の兵士のこの目つき、ご覧ください。恐怖や不信感を政府が作り上げていった結果、人々の顔つきが変わってきました。
また、お母さんたちの顔、目付きも変わった。
今お見せしているのは大石よしのさんの写真集ですが、恐怖、不信が人間の表情をどんどん変えて行きました。
誰も、誰のことも信じられない。どうしてか。
もし皆さんが日本語以外に、英語、フランス語、ドイツ語が出来たとしても、それを隠さないといけない人生、つまりすこしでも外国語ができると処刑の対象になる。
馬鹿なふりをして2年間足らずを暮らしていた、本当の自分を生きていなかった大人を見て子どもが育ったわけです。
ユネスコ協会連盟が作った「ふるさとカンボジアは遠く~カンボジア・クロニクル」として知られている本です。
ご覧ください。子どもたちが生まれて初めてクレヨンと紙をユネスコに与えられて描いた絵が、こんなに残酷な絵でした。
「兵士が処刑しようとしている」
「むちで働いている人たちをたたいている」
「ジャングルの中を難民としてタイ国境に歩いている様子」
「川で逃げている姿」
これを子どもたちが、毎日見ていたわけです。
世界のジャーナリストはこの時期、カンボジアで何が起こっているかをまったく知らされていませんでした。
75年から77年はいわゆる閉鎖状態。私たち「海外」は、いわゆる民主主義の国は、全くカンボジアに入れませんでした。後で、大量虐殺があったというのは分かりました。
でもその間に、子どもたちの目は見てしまったわけです。
この絵は、
「骸骨状態の人たちが目の前に沢山並んでいます」
「家族が処刑され、左側の人の目から涙が鎖のように流れています」
この子どもは「自分の手で親を埋めてきた」と文章に書いています。
こちらは「地雷がたくさん埋まったジャングルを抜けてタイの領内へと歩いて行く人々」を描いた子どもの絵です。
タイはホスト国です。
「どんどん難民を受け入れた国」をホスト国と言いますが、タイは自分の国も大変だった時期、80年、81年に社会主義化しつつあった、インドシナ3国(ラオス、カンボジア、ベトナム)から難民を受け入れたわけです。
難民をどんな風に受け入れたか。
ラオスからは国境になっているメコン河を、夜泳いでタイ国内へ入ってきました。 私はラオスの首都ビエンチャン対岸のノンカイというタイ領内で日本語を教えたり、Tシャツや缶詰などの援助物資を配っていました。
カンボジアの人はジャングルの中を、陸路でタイ領内へ入って行きました。 途中で沢山の子どもたちや親が餓死したり、地雷で亡くなっているのを見て育った子どもたちが、タイに入ってきたわけです。
ベトナムの人たちはどうやって国を出て行ったか。陸路では不可能です。 昔ボートピープルという名前を聞いたことがあると思いますが、季節風を待ってタイ南部のソンクラーという所へ行きました。
ソンクラーにはベトナム人だけの難民キャンプがありました。また、北へ向かったベトナム難民もいます。
ラッキーだったら日本や香港に着きましたが、海賊にあったり難破してたくさんのベトナムの人が途中で亡くなりました。
このように81年から91年のタイは沢山の難民を抱えていました。
よく「深津さんカンボジアへ行っていたのでしょう」と言われるのですが、カンボジアにはこのころ誰も入れませんでした。
出来るのはタイに行って、国境線上の小さなキャンプでいろんな手伝いをすること。それがこのころ可能だった唯一の方法です。
難民キャンプで人々がどういう生活をしていたか、どうやって「子どもこそ平和の担い手だ」ということにつながっていったか、話したいと思います。
典型的なカンボジアの人が陸路でキャンプに入ってきた様子です。皆バケツ、毛布を持っています。
これは国連の難民高等弁務官(UNHCR)が支給し、私たちボランティアが配ります。 マラリアにかからないように蚊帳を家族に1個など、最低限の援助を受けます。
お母さんたちは着のみ着のまま逃げてきました。彼女たちは必ず、クロマというカンボジアの織物を身に着けています。当時、機織りは当たり前の手仕事で、クロマは女性なら誰でも織れるものでした。
頭に巻いたり、農作業の天秤棒のようにもできる生活必需品で、今の時代でいうなら携帯電話のような存在でしょうか。
どんな難民もクロマだけは必ず持って逃げ、これをカンボジアの誇りとしていました。
難民キャンプというのは、タイの国の隅っこに住まわせてもらう状況で、水道はもちろんなく、給水タンクが毎朝運んできました。
各家庭は天秤棒2杯で一日過ごさなければいけません。顔を洗ったり、食事の後の食器を洗ったりをその水で賄っていたのです。
水の運び方は見とれてしまうくらい美しく、骨盤でリズムを取りながら機能的に水を運び、一滴もこぼしません。カンボジアの難民にとって、天秤棒は生活の必需品でした。
地雷を踏んだ子どもたちのケアも、国境なき医師団(MSF)やスイス・ヨーロッパの団体である(SOS)が行っていました。
自分たちにやさしく手を差し伸べてくれる大人に、子どもたちは初めて出会ったわけです。
これが地雷です。大きさは「のど飴」の缶くらい。
人を殺す兵器ではなく、あえて殺さない状態でケガをさせる悪魔の兵器です。
なぜ殺さないか。
人がケガをしていると私たちは人情として、その人の面倒を見ますね。
1人のケガ人が出れば2,3人で面倒を見るでしょう。それを狙っている訳です。
この兵器1個で相手の兵士5、6人の士気を弱めることができる。
殺してしまうと土に埋めて、線香をあげて「サヨナラ」で終わるかもしれませんが、ケガをすると人の心は痛むのです。
私は昔デザイナーをしていましたが、兵器のデザイナーを許せません。
地雷のデザイナーは、踵(かかと)を傷つけるか、それとも膝(ひざ)をやっちゃおうか、股関節をぶっとばそうか、体のどの部分を傷つけるか一生懸命デザインする訳ですが、どんな教育を受けた人たちが、そういうことを考えるのでしょうか。
地雷にはパチンコ玉が入っていて、体重をそこに乗せるとパチンコ玉が傾き爆発します。 パチンコ玉の傾きや大きさで体のどの部分を傷つけるかを、一生懸命デザイナーが考えている、これは本当に許せません。
難民キャンプはタイ領内ですから、キャンプは有刺鉄線で囲まれ一歩も外に出られない中で生活をしていました。
ここでも、どんどん子ども達は生まれてきました。
大人が不安な毎日過ごしている中で、子どもはほったらかしにされていました。
私が「どうしたら難民が出ない世界が出来るのだろう、援助ができるのだろう」と悩んでいた時に、キャンプ内の「希望の家」と言う保育園に出会いました。
この保育園の園長先生(佐藤ゆきえさん)に、自分のもんもんとした悩みを伝えました。
「難民が出ない手伝いをしたいのに、難民を出している、そんな気持ちがする。どうしたら難民が出なくてもいい援助ができるのでしょう」と訴えました。
その時の答えが今日の講座のタイトルです。
「平和は子どもから始まるのよ」と、園長先生は言いました。
その時の不思議な感覚を今でも覚えています。
「いったいこの人は何を言っているんだろう。あんな小さい子どもたち。泣いたり、怒ったり、走りまわったり、どうしてあの子たちが平和をつくるの」と、その時は園長先生の言った意味が全く分からなかったわけです。
希望の家では、全く笑わなかった子どもたちを一生懸命楽しませようと、手遊びや人形劇のエンターテイメントをしていました。
ポルポト時代は歌ってもいけない、踊ってもいけない、自己表現は一切禁止されていました。
子どもたちは希望の家にきて初めて、故郷のわらべ唄、祖国の文化を聞き、踊ることができたのです。
この子どもたちは、難民キャンプのお医者さんが足のケガを手当てしているのと同じことを人形にしました。
「優しくされた子どもたちは、かならず人形に優しくする」見立て遊びですが、子ども達はちゃんと見ていて、人形に同じようにやっているのです。
ポルポトの人たちが余りにも文化人、知識人を処刑したので、今でもカンボジアの人たちは、なかなか本当の自分のことを言いません。特に外国人には言いません。
例えば「元大工」とか、「元教師」なんて、なかなか言えない。何をされるか分からないと思っているから、よほどの信頼関係がなければ言えない。
よく「希望の家」に顔を出していたこのおじさんも、大工さんだったことをなかなか言い出しませんでしたが、彼はこんなものを作って、子ども達が遊べるようになりました。
また、別の団体は、子どもが「寂しいな、お母さんのそばにいて機織りを見ていたいな」と思ったら自由に行けるような空間を作りました。
そばでお母さんが織っているのを見ながら、すやすやとハンモックで寝てしまう子もいます。
子どもが安心して子どもの時間を生きられる、そんな空間を作ったのです。
そんな風に、いろいろな人が希望の家を手伝ってくれるようになりました。
お母さんが亡くなったり、親子離れ離れになった子どもたちのために、保育所の敷地内に機織りセンターを作りました。
そして、この「希望の家」で実施されていたのがモンテソーリ教育だったのです。
初めてこれを見たとき、私は
「なんですかこれ? 数える教材だったり、ボタンをはめたりスナップをはめたり、中を見ないで袋から同じものを取り出したり、ちいさな瓶を開けたり、大きい瓶を開けたり。いったい、何なのだろう」と思いました。
大人はすぐに代わりにしてあげてしまいますけれど、赤ちゃんや小さい子どもにとって瓶を開けるのは本当に難しいのです。考えて下さい。
左手、右手片一方の手は固定して、じっとそれを固定させるために持ちます。
もう片一方の手はふたをクルクル開ける。つまり左手と右手は違う動きをしています。 これは、幼い子どもにとってとっても高度なことで、それに取り組むのが子どもは大好きなのです。
やさしいことばかりでは飽きてしまいますから、瓶を開けてみたり、雑音筒(サウンドシリンダース)といって、竹の中にスイカの種を何粒かずつ入れて、同じ音を合わせる音の遊びをやったりします。
その教具も、全部キャンプで手に入る竹で作っていました。 高い教材をヨーロッパから持ってくるのではなく、壊れたらキャンプ内の敷地の中で入手でき、修理できる材料でモンテッソーリの教材を作っていました。
天秤棒で給水タンクから大人が水を汲んでいた、それを見た子どもたちは同じ事をしようとしました。 見立て遊びですけれども、自分たちも同じように水を汲みたい。
そこで、希望の家の先生たちは一人で汲めるように、竹を使って子どもサイズの天秤棒を作ってあげました。
これが自立への第一歩なのです。
大人がやってあげることは簡単ですが、子どもも一人で水を汲んで植物に水をあげる、誰かの役に立った、植物が元気に生き返った、こういう体験が子どもに自信を与えます。
いくら大人が「いい子だね」と褒めても、抱きしめたりしても、自分で選んで何かを活動しなければ本当のセルフエスティーム、自尊心は身に付きません。
このモンテッソーリの「希望の家」では、たくさんの子どもたちが自分で自分の服を洗います。
カンボジア、タイの国境は暑いのですぐに乾きますが、また汗をかいてまた自分で洗い干す。
たくさんの子が並んでいますが、こんな一生懸命な表情は、今の日本の保育園では見かけません。
本当にやりたいことをやらせてもらっているかは、子どもの表情に本当に表れています。
あんな殺りくのあったジャングルを越えて来た子どもたちも、この保育園で平和の練習をした結果、手伝いあうようになりました。
出来ない子どもたちに、大きいお兄ちゃんやお姉ちゃんが手伝ってあげる。 その「支えあい」は自然発生します。
人間にはもともと、困っている人がいたら助け、協力する能力、傾向性があるんだと思います。 大きい子が小さい子を手伝う、また小さい子のやっていることを見て、大きい子が学ぶことも、たくさんあります。
「希望の家」は1991年に閉鎖されましたが、延べ7500人の子どもたちが「希望の家」を卒園しました。そのうちの約500人が日本へ来ていると思います。
フランス、オーストラリア、カナダなど、たくさんの国へ散らばって、もう30代くらいになっています。
私達はこの子どもたちが「二度と難民にもならないし、難民を出す側にもならない」、そういう人間になってほしいと思います。
最後に一枚、気になっている写真をお見せして今日の話を終えたいと思います。
子供が迷彩服を着て銃を他の子供に向けて遊んでいます。数年前にタイとカンボジアの国境で出会った光景です。
この保育園におもちゃを届けていたのですが、先生に「こういう遊びをどうしてするの? 止めないのですか?」と聞きました。
そうすると、子どもが「国境はこんな人でいっぱいだよ。だってかっこいいいよ」と言います。
タイ、カンボジア国境はゲリラが出るので、国境警備の人が迷彩服を着て、いつも銃を持っている。それを見た子どもたちは当然、見立て遊びで真似します。
優しくしてもらった子どもたちは、優しく人形を扱います。天秤棒を溢さずにする姿を見たら、それを真似します。
そして大人が銃を突き付けていたら、もちろんそれだって真似したい。小さな子どもたちはいいことも、悪いことも吸収し、真似をします。そうやって、自分の住んでいる文化に適応していくのです。
子ども達がが悪いのではありません。周りにいる大人達が武器で他人を自分の言うとおりにさせようとする仕組みが悪いのです。
一方でもう一つ、これは近くの村での光景ですが、子どもが自分の顔の何倍もあるような大きなナタのような物で、おもちゃの修理をしていました。
日本では「腹がたったから人を殺した」「ムカついたから殺した」という事件が相次いでいますが、私はこの子を見た時に「刃物は、物を作るための道具だった」と思い出しました。
刃物で人を傷つけるニュースがあまりにも多いので、元々何かを作り出す道具としてのナタがとても新鮮でした。
この子はきっと周りのお父さんかお爺さんか、誰かがこれを平和利用していたわけです。
本当に物を作り出すための手の使い方をしています。
今、「平和は子どもから始まる」のタイトルで話をさせていただきましたが、本当は大人がもっと意識して次の世代、その次の世代が今よりももっと良くなるように、私たちの手の使い方、この手で兵器をデザインするのか、それとも包丁であっても、それを人を傷つける目的ではなく、おいしい料理を作るために包丁を使うのか、それは私たちに課せられている課題だと思います。
ありがとうございました。
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最後まで読んで下さった方、ありがとうございます。
深津高子さんの講演会、8月25日火曜日に横浜で、しかも港に停泊中のピースボート洋上で(=自慢の「子どもの家」にて)、開催することが決定しました!
当日は私も1日高子さんと一緒にいる予定です。「子どもの家」プログラム第1期生として参加した子どもたちの様子も映像で流そうと思います。
ぜひお子様づれで遊びにきてください。これからママ・パパになる人も、どうぞ遊びにきてください。
お孫さんと一緒に地球一周を考えている方も、どうぞどうぞ遊びにきてください。