深津高子さん講演録<モンテッソーリ入門>
先月、ピースボートセンターで、深津高子さんの講演会を行いました。
当日は、小さなお子さん連れを含む40人以上の方にお越しいただく大盛況でした。
高子さんは、
「今回は、モンテッソーリの紹介、発達の四段階も、ピースボートの良さも、平和の源としての子どもも、少しずつ紹介するオムニバス!まるで “前菜の5点セット”の様(笑!)」と仰いながら楽しく講演してくださいました。
以下、「ピースボート洋上子どもの家」のアドバイザーであり、国際モンテッソーリ協会公認教師、一般社団法人「AMI友の会NIPPON」副代表の深津高子さんのお話。
年始から新しく入ったスタッフによる講演録、お届けします。
今日のメニュー
・モンテッソーリ教育とは?
・従来との教育とモンテッソーリ教育との違い
・モンテッソーリが発見した法則:発達の4段階
・子どもと一緒に行く飛行機旅と船旅の比較
<モンテッソーリ教育とは?>
・20世紀初めにイタリアの医学博士マリア・モンテッソーリが子どもの観察を通して系統だてた、より良くいのちが育つための援助法。
・マリア・モンテッソーリさんは、イタリアで最初の女性の医者、精神科医でもあり、ノーベル平和賞候補に3回連続ノミネート(1949年~)されている方。
・1907年 ローマのスラムに「子どもの家」を開園、そこでの試行錯誤が現在のモンテッソーリ教育の基盤となっている。
・2007年では、世界110カ国で普及される教育となっている
・モンテッソーリスクールの卒業生には、例えば以下の人々がいる
アンネ・フランク(アンネの日記著者)
ジェフ・ベゾス(Amazon.com創立者)
サーゲイ・ブリン(Google創立者)
ラリー・ペイジ(Google創立者)
ジミー・ウェールズ(Wikipedia創設者)
・モンテッソーリ教育の骨子にあるのは、「注意深く観察すること」(身体や手をどう使っているか、どう動いているか)。
・観察により、「子どもたちからはじまる平和」があると考えた。その過程で、世界中の子どもに共通した「発達の段階」(後述)を発見した。
モンテッソーリの考え
社会に住む大人の役割
・人がどう育つかを知る(人間ができあがる過程を知る)
・大人はカリキュラムで子どもを押さえつけるのではなく、子どもが内的な教師に従って心地よく過ごせる環境を整える黒子である
・何を繰り返しているか、よく観察する(「何やってるの?」「上手ね~」などと声をかけずに見守る)ことが大事
たとえば、
・“テーブルに登ったり降りたりすること”を頻繁にしたがる子どもがいたとします。大人にとってはイタズラのようにみえるかもしれませんが、実際には「骨盤を交互に動かすこと」「片足で支えバランスをとる練習」をしているのです。子ども達が日常的に繰り返し行っていることは「生きるために練習が必要な動き」です。
・何かを繰り返ししている子どもを見かけたら、何の運動が必要なのか見極め、危険でない限りは続けてできるように見守ることができる、心の余裕と環境の準備が必要です。たっぷりとした時間を子ども達に与えることは、子どもの人生に生涯続く、最高のギフト(贈り物)になるでしょう。
・言葉の無い乳児が泣いていても、おっぱい以外にも理由があります。主観的でなく、客観的によく観察し、泣く背景を調べます(例:おむつを替えて欲しいのか、抱っこして欲しいのか、一緒に遊んで欲しいのか、などのニーズです)
・子どもたちは大人に教わる前から、観察して知っていて、実践したり、学ぼうとしている
【従来との教育」と「モンテッソーリ教育」との違い】
・・・例えるならば「バケツ」と「球根」
<従来の教育>
・大人が教育の中心であり、まだ空っぽ状態(バケツ)の子どもを、教育やカリキュラム(水)で満たすことが大切/親切である。
・大人が良かれと思ったことが「教育」と名付けられている
→大人たちの勝手な考え
<モンテッソーリ教育>
・大人は子ども(球根)が十分に育つように、学びの環境を整える(肥えた土を作る)
・球根がいつ頃咲くか、何色になるかは球根次第。見守り、観察することが重要。
・まるで園芸家のように、その球根がどんな土を好み、何月に植え、どれくらいの頻度で水をあげる必要があるのか、大人は理解する必要がある。
【モンテッソーリが発見した法則】
・発達の四段階
(まるで四季が巡るように、人間は0~24歳の間に心身が大きく4回変化し、それぞれに必要な環境があるという発見)
①乳幼児期0-6(0-3/3-6)歳
②児童期6-12歳
③思春期12-18(12-15/15-18)歳
④青年期(成熟期)18-24歳
モンテッソーリは、心身ともに大変身する時期が①乳幼児期と③思春期で、落ち着いているのは②児童期と④青年期と発見した。
①乳児期は「吸収する精神」がそなわっている
・大阪生まれの子→大阪弁を誰からも教わることなく話す
・周りの文化、言語、習慣すべてを吸収していく(良いことも悪いことも)。
・日常的に暴力的な行為を目にする環境・文化に育った人 →それが当たり前となる(環境の影響)
・敏感期ともいい、言葉や秩序、運動に特に敏感になる時期。
・言語→4歳半頃「ごめんね」という言葉が出てくる。生まれてから周りの大人(テレビやアニメでなく、生身の人間)が、実際のシチュエーションで「ごめんね」を使っていることが大切。
・秩序→2歳頃は秩序の敏感期のピーク。いつもと違う場所に物が移動していたら、元の場所に戻したがる。保育園に行くときの道順がいつもと違うとだだをこねるなど。大人も知らない場所に行ったら地理が分からずに不安(海外旅行に行ったら不安)。
・社会性→自発的に「ごめんね」と謝る気持ちも、その成長の証。
・感覚の洗練→何でも触って確認したい時期の子どもとスーパーへでかけると、当然商品を触りたがる。触覚を洗練させている時期で何でも確認したい。(「今日はカレーを作るからジャガイモ一緒に探そうね~」など目的を伝えてからスーパーに行くと緩和される。)
・運動→バランスを取る、むやみやたらに身体を動かすのではなく目的のある動きをモンテッソーリは運動と呼ぶ。(例:注ぐ、ぞうきんで拭く、ほうきで履く、洗うなど)
②児童期にはグループワークを好み、社会科見学の予定やアポも子ども達で相談して行う
③思春期はホルモンからの心身の大変革。本来なら勉強に集中できず、自分は何に向いているのか、友人に好かれているのか、社会で有用な人間なのかと悩む時期。
④青年期は社会に恩返ししたいと思う時期
0~3歳
・無条件の愛(とにかく、あるがままを愛する)、しっかりとした愛着関係を築く時期
・根がしっかりと安定しているからこそ、探求、冒険に行ける
・共生期間(生まれてから最初の2ヶ月間)、母子ともに初めての愛の蜜月期間で、双方が必要とするものを与え、影響し合いながら過ごす
・「ごめんね」と自分から言えない時期は強制しない(特に3歳頃までは自己中心的に物事を考える時期で、それはとても自然な状態)
・2歳頃の子どもは“人のものも私のもの”状態。 未だ”言葉を使って良く表現できないので、貸し借りのコミュニケーションが未熟
・この時期は誰からも邪魔されない環境をつくる。1人で集中してできる環境を作ることで、安心して物事に集中する時間を保証してあげられる。
3~6歳
・この時期は少しづつ小グル―プでも活動できるが、1人で集中してできる環境も残しておく。長い工程の作用に集中する時間が増える。
6歳~
・机をくっつけて一緒に学ぶ(社交性、協調性が芽生える時期のため)
・「どうして?」(WHY?) が連発される
・地球の成り立ち、生物の進化、人の進化を紹介する時期
・何か問題が起こったら、子どもたち自身で考え、企画し、問題解決の方法を探る。
・「Going-out」とは:モンテッソーリ小学校プログラムの大きな柱の一つで、学校以外に更に学べる場所(図書館、博物館、美術館など)に、小グループででアポを取り、交通手段を考え、旅費を計算し、学芸員にインタビューし、クラスで発表し、学芸員にお礼状を書くまでが「Going-out」の流れ。
12歳~
・特に中学生は親から離れ、寄宿舎で農業に取り組む(モンテッソーリの中学校プログラムの名称でアードキンダー(独:大地の子)と呼ぶ)
・学校の勉強は農業をするなかで、必要なこと(例:測量、土・水質検査、園芸、家畜の世話など)を学ぶ
・小さな経済活動(作った野菜を売るなどのマイクロ・エコノミー活動)で、経済の循環や社会に貢献し始める
18歳~
・自分の研究テーマを持っている、目的に至るために足りない技術を身に付け、訓練を受ける時期。
・この段階・年齢まできたら、子どもたちは充分、成熟し「これからどのように社会に貢献・還元することができるか、社会への恩返しの方法」を考えられるようになる
小さい頃に、「好きな時に好きなものを好きなだけ繰り返すことができる環境」を作ることが、人間の育ちの土台を作る上でとても大事です。
最後に
【親子で行く飛行機旅と船旅の比較(ピースボート)】
・飛行機→制約が多い
なにかと待ち時間が多く、たくさんの荷物を持って移動をしなければならず、空港では多くの検査ゲートを通る必要があるなど、親子にとってストレスが多い。
・船→スローライフ
気温、時差の変化がゆるやかで、ゆっくりと景色を眺めながら次の国へ移動できる
世界の国々は海でつながっている、という原体験につながる
船上で走ったり、泳いだり、大声を出せる場所がある
また2歳から100歳までの異年齢集団と暮らす
船はテレビ、携帯、スマホのない生活
→◎子どもにとっては電子機器でない遊びがどんなに楽しいことかを知るきっかけになる。
スタッフの感想:
自分はモンテッソーリ教育を受けたことがないので、もし自分が実際に経験してたらどうなっていたのかなと思いました。大人が子どもに対してできることは、「教育」することではなく、「共育」であり、共に育っていくことなんだなと感じました。